タンザニアは、日本の面積の2.5倍、インド洋に面する東アフリカ(注:ケニアの南)に位置します。19世紀に、欧州列国の植民地政策がアフリカ地域を席捲します。最初はドイツ領でしたが、第一次大戦でドイツが敗れて、イギリス統治領となりました。(注;1961独立)1864年頃、欧州列強とアフリカの王様達の間で、植民地の地域割り振りと、国境が設定されます。ドイツのカイザーが、イギリスのビクトリア女王にお願いします。
ケニアには雪を頂くケニア山があり、ウガンダにはやはり雪を頂くルエンゾリ山が有りますが、タンガニーカ(注:1964タンガニーカとザンジバルが連合して、タンザニア連合共和国となった。)には、雪を頂く山がありません。是非にもキリマンジャロ山をタンガニーカに譲って欲しいと席上で嘆願します。
キリマンジャロ山の所で、ケニア・タンザニアの国境線は北上し、アフリカ大陸最高峰はタンザニアに抱え込まれました。タンザニアにはアフリカ大陸で一番低い所も有ります。タンガニーカ湖は水深1,450メートル、ロシアのバイカル湖に次ぐ世界第二の深さです。タンザニアは、アフリカ大陸で一番高く一番低い特長を持つ国です。



タンガニーカ湖は有名なアフリカ地溝帯の最西部に位置します。地溝帯は、地球内部のマントルの対流により作られます。アフリカの地溝帯はマントルの上昇部ですので、大陸は引き裂かれる形になります。1億3千万年後には、東アフリカはアフリカ大陸から離反してインド洋に浮かぶ陸地部分になると言われています。
タンガニーカ湖の水はコンゴ河経由で大西洋に出ます。この湖水の特長は、PH9.7とアルカリ性の強い事と、340種以上の魚類の生息です。南北に約600キロメートルもあるのに、熱帯のために、外気温の影響が湖水に及ばず水深3-4メートルの水温が一定であるために、自然対流が起こらず、水深250メートル以下は無酸素状態で無生物地帯となっています。湖水のアルカリ性の高さの原因は地溝帯にあります。1956年にンゴロンゴロ自然保護区の北側にあるオールドニョウレンガイ山ガ噴火し居合わせた地質学者が写真に納めます。噴き出すマグマが、赤くなく、黒かったのです。しかし、当時のフイルムはモノクロでした。科学的証拠になりませんでした。1964年の噴火には、カラーフイルムが間に合いました。地溝帯の火山のマグマは黒いと言う事が証明されました。
この黒いマグマは、カーボナタイトと呼ばれます。タンガニーカ湖の水は飲んでも塩っぱくありません。食塩によるアルカリ性ではない、異なった成分が引き起こすアルカリ性の高さです。

   
   
タンザニアの表流水や地下水のアルカリ性が高いのは、地溝帯の火山活動に由来します。農業開発の大きな問題の一つが土壌に起こる塩害です。土壌の特長は、赤土の多い北部、少ない南部に分けられます。植生は、北部にはショート・グラスが多く、南部は少なく。プラクテギアス(シャゲツイバラ亜種)が大半を占める南部の林(スワヒリ語でミオンボ森)、森林樹種の多い北部に区別されます。
タンザニアは野生動物の宝庫です。北部のセレンゲティ草原は、500万頭を越える草食獣を抱えています。雨期、草の生産量ガ高まると移動を繰り返す有蹄類はワイルドビースト(牛羚・ヌー)を中心として、シマ馬、ガゼル種類、200万頭以上がこの移動に参加します。3月から5月にかけて、一望、20万頭の自然の一大ドラマが見学できます。
家畜は、ショート・グラスを食べます。トール・グラスは食べられません。野生動物の中で、ショート・グラスを食べるのは、ガゼルの種類です。ガゼルの種類が生息しない地域では、家畜の生存は困難です。牛を中心家畜とする牧畜部族は、ガゼル類と共存している訳です。ナイルサハラン語族(牧畜部族)の南限は、タンザニアの北部です。土壌・植生が部族社会の自然界での生存を左右しています。
セレンゲティ地域の東南部には、コイサン語族に属するブシュマン系のハザアビ族(農業・採集)が生活しています。その直ぐ東側には、ンブルー族(ナイルサハラン語族のクシュ語、 半農・半牧)が生活しています。その他の地域は、コールドファニアン語族に属するバンツー語族に代表される農耕部族で占められています 。
 

     
       
東アフリカの、特にタンザニアの農耕部族とアラブ・アジア的な人種集団との交流は1-2世紀頃より始まり、2000年に及ぶ長い歴史があります。この交流で、アラビア語・バンツー語の混血語が誕生します。現在のスワヒリ語です。13世紀頃には、ほぼ完成しました。15世紀、ポルトガル人による武力侵略が始まるまでは、アラブ人とバンツー人の間では、スワヒリ語を媒体として、交易と交流が平和的に行われていました。
その後、ポルトガル人の武力侵略を、オーマン王朝が武力で追い払って、東アフリカに武力進攻して初めて、奴隷交易が始まりました。タンザニアのバンツー農耕民は、色々な形での異質なアラブ文化との交流を通して、スワヒリ語によるスワヒリ化、アラブ的な生活文化を通して都市的生活様式を土着化させます。このイスラムによる第一次近代化の受入れの努力は、独自のスワヒリ文明を構築して行きます。
第二次のヨーロッパによる近代化の波は、スワヒリ化により既に完成した受け皿を通して、受け入れた訳ですから、タンザニア人が受け止めやすいようなシステムが開発され用意されていたわけです。
1960年代、アフリカ諸国が独立を果たして行くに当って、ガーナの初代大統領エンクルマの演説には少なくとも8人の部族語通訳官を必要としましたが、タンザニアの初代大統領ニエレレは、全国に通用するスワヒリ語のために通訳官は不要、独立当初から独自の政治的言語象徴を用いる事が出来たのです。


         
         
この異質な物の受入れシステムは、ルワンダ・ブルンディからの難民受け入れの時に,遺憾なく発揮されます。
1992年5月頃から非常に短期間で、120万人の難民が北西部ウンガラ・キボンド州に流入します。国連の対応が8ヶ月も遅れますが、この間一人の餓死者も出さずに.、タンザニアの農民が、彼らに土地(生活空間)・食料・生活必需品を供給します。凄い事です。これは、タンザニアがその歴史の中で研鑚・努力した一つの文明構築の証明です。餓死者も出ず、部族の迫害もなかったがために、ニュースとして伝えられません。それ故に、この事実は殆ど知られていませんが、世界中がもっともっと評価してしかるべきです。ケニア・ザンビアでこの様な状況になった場合、非常に悲惨な結果が起こったと想像できます。


タンザニアは、混迷の部族抗争の続くアフリカにあって、唯一、国内で部族抗争を起こさない国家です。(注:東部・南部アフリカ諸国の中で構成部族数が最も多いのがタンザニアで120部族、因みにケニア 80・ザンビア 70・ウガンダ 60)世界中で少数者が解放されています。これらの解放はロシアを見ても解るように、抗争の収拾が付きません。タンザニア文明に学ばねばなりません。

日本の海外青年協力隊の帰国隊員が再び戻りたい国の第一番の国は、タンザニアなのです。





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